病人だったルーズヴェルトは正常な判断力を失っていた
戦争勢力の暗躍と、乗っ取られたホワイトハウス シリーズ!日本人のためのインテリジェンス・ヒストリー⑨
エヴァンスらによると、この話はルーズヴェルトの息子エリオットが書いた伝記『彼が見たままに(As He Saw It)』(Duell, Sloan & Pearce, 1946, p.189)にルーズヴェルトのユーモアの例として取り上げられています。
ルーズヴェルト本人も笑える冗談のつもりだったらしく、三月にニューヨーク・タイムズのキャトリッジ記者をホワイトハウスに呼んだときに自分から話しているし、チャーチルの自伝『縮まりゆく包囲環(Closing the Ring)』(邦訳は『第二次世界大戦(三)』、河出書房、二〇〇一年)にも載っているとエヴァンスらは述べています。
もっと深刻だったのは、大統領として重要な文書に署名していながら、あとでその記憶がないという事例があったことです。
少し時間が戻りますが、一九四四年九月の第二回ケベック会談(チャーチル、ルーズヴェルト及びカナダのマッケンジー・キング首相)で、ルーズヴェルトは「モーゲンソー計画」という対ドイツ占領政策の書類に署名し、あとになって「全く覚えていない」と言っています。また、ルーズヴェルトの通訳のボーレンは、ルーズヴェルトがラテンアメリカ政策の書類に、何も中身を理解せずに署名していたと語っています。
ルーズヴェルトが死んだ一九四五年四月十二日までの数ヶ月間、ルーズヴェルト政権は事実上、大統領の役割を「誰か」に委ねる摂政制だったというのが実態なのです。
第一に、ルーズヴェルトはろくにホワイトハウスの執務室にいませんでした。前年春頃から、自宅、ジョージア州の別荘、サウスカロライナの友人宅、ハワイへの航海などでたびたび休暇を取っています。
第二に、ホワイトハウスにいるときでも、医師の指示で睡眠十時間プラス昼寝、執務は四時間以内に制限されていました。その四時間の間にも、キャトリッジの前で見せたような、下顎が下がって口が開き、目が虚ろになって外界を認識できない症状に襲われています。
政権最後の数ヶ月、オーバルオフィス(大統領執務室)にいたのは、死に瀕した病人でした。
任期最後の年である一九四五年は、ルーズヴェルト大統領の名前で出される公電や覚書はホワイトハウスのスタッフが作成していましたが、その内容をどれだけルーズヴェルトが知っていたか相当に疑問があります。
ルーティンワークだけならば、トップが不在でもなんとかなるかもしれませんが、戦争中にルーティンは存在しません。ルーズヴェルトが機能していなければ、トップレベルの誰かが公電を読み、返信を書き、重大な決定を下す必要がありました。
それをいったい誰がやったのかが重要です。
そして、これまでにも述べた通り、ルーズヴェルト政権には、ホワイトハウスも含めて数百人のソ連工作員が浸透していたのです。
(『日本は誰と戦ったのか』より構成)
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